さて、気になる問題の資料をこれから皆さんにお見せするわけですが、その前にまず、既存の資料でこの事件がどう描かれているのか、そのあらすじをよく頭に入れておいていただきたいと思います。
7点全ては紹介しませんが、代表的なものについていくつかご覧いただきます。
(その他の資料について詳しく知りたい方は、楽工社の「江戸うつろ舟ミステリー」が比較的入手しやすく資料も豊富なのでおすすめです。)

■曲亭馬琴「兎園小説」

兎園小説「虚舟の蛮女」日本随筆大成第二期巻一(昭和三年)より

兎園小説「虚舟の蛮女」日本随筆大成第二期巻一(昭和三年)より


さすがに原本は所有しておりませんので、昭和初期に刊行された書籍から引用させていただきます。<日本随筆大成第二期巻一(昭和三年)より>

うつろ舟の蠻女
享和三年癸亥の春二月廿二日の時ばかりに、當時寄合席小笠原越中守(高四千石、)知行所常陸國はらやどりといふ濱にて、沖のかたに舟の如きもの遥に見えしかば、浦人等小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に濱邊に引きつけてよく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒のごとくにしてまろく長さ三間あまり、上は硝子障子にして、チヤンをもて塗りつめ、底は鐡の板がねを段々筋のごとくに張りたり。海巌にあたるとも打ち碎かれざる爲なるべし。上より内の透き徹りて隠れなきを、みな立ちよりて見てけるに、そのかたち異様なるひとりの婦人ぞゐたりける。
そが眉と髪の毛の赤あるに、その顔も桃色にて、頭髪は假髪なるが、白く長くして背に垂れたり。
(頭書、解按ずるに、二魯西亜一見録人物の條下に云、女の衣服が筒袖にて腰より上を、細く仕立て云々また髪の毛は、白き粉をぬりかけ結び申候云々、これによりて見るときは、この蠻女の頭髪の白きも白き粉を塗りたるならん。魯西亜属國の婦人にやありけんか。なほ考ふべし。)そは獣の毛か。より糸か。これをしるものあることなし。迭に言語の通ぜねば、いづこのものぞと問ふよしもあらず。この蠻女二尺四方の筥をもてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくもはなさずして。人をしもちかづけず。その船中にあるものを、これかれと検せしに、
水二升許小瓶に入れてあり。(一本に、二升を二斗に作り、小瓶を小船に作れり。いまだ熟か是を知らず。)敷物二枚あり。菓子やうのものあり。又肉を練りたる如き食物あり。
浦人等うちつどひて評議するを、のどかに見つゝゑめるのみ。故老の云、是は蠻國の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありてその事あらはれ、その密夫は刑せられしを、さすがに王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虚舟に乗せて流しつゝ、生死を天に任せしものか。しからば其箱の中なるは、密夫の首にやあらんずらん。むかしもかゝる蠻女のうつろ船に乗せられたるが、近き濱邊に漂着せしことありけり。その船中には、俎板のごときものに載せたる人の首の、なまなましきがありけるよし、口碑に傅ふるを合せ考ふれば。件の箱の中なるも、さる類のものなるべし。されば蠻女がいとをしみて、身をはなさゞるなめりといひしとぞ。この事、官府へ聞えあげ奉りては、雑費も大かたならぬに、かゝるものをば突き流したる先例もあればとて、又もとのごとく船に乗せて、沖へ引き出だしつゝ推し流したりとなん。もし仁人の心もてせば、かくまでにはあるまじきを、そはその蠻女の不幸なるべし。又その船の中に、□□□□等の蠻字の多くありしといふによりて、後におもふに、ちかきころ浦賀の沖に歇りたるイギリス船にも、これらの蠻字ありけり。かゝれば件の蠻女はイギリスか。もしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蠻王の女なりけんか。これも亦知るべからず。當時好事のものゝ寫し傳へたるは、右の如し。圖説共に疎鹵にして具ならぬを憾とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。


【現代語訳】
享和三年の春二月二十二日、当時寄合席の小笠原越中守(石高四千)の知行所、常陸の国「はらやどり」という浜で、沖の方に舟のようなものが見えた。
浦人たちが小船で出て浜辺に引き寄せてみたところ、舟の形は香盒のように丸く、長さは三間(約5.45m)あまり、上は格子のガラス窓で樹脂で固めてあり、底は鉄の板を筋のように張り合わせていた。おそらく岩礁から船底を守る工夫だろう。皆で上の方から舟の内側を覗いてみたところ、見慣れない風貌の女性がひとり乗っていた。
その眉と髪は赤く、顔はピンク色。髪型は白くて長い辮髪で、背中に垂らしていた。(わたくし馬琴が思うに、「二魯西亜一見録人物」という書物に、『女の衣服が筒袖で腰より上を細く仕立て…云々』、また『髪の毛は白粉をぬりかけて結び…云々』とあり、これから考えると、この蛮女の髪が白いのも白粉を塗ったためであろう。おそらくロシア属国の婦人ではないだろうか。断定はできないが。)
その髪は動物の毛かより糸かは分からない。言葉が通じない以上、どこの者か尋ねることもできない。
この蛮女、二尺(約60cm)四方の箱を持っていて、特別愛着のあるものとみえて、片時も離そうとせず、誰にも触らせようとしなかった。
船中にあるものをつぶさに調べたところ、水二升が入った小瓶(二升を二斗、小瓶を小船という説もあり、定かでない。)、敷物二枚、菓子のようなもの、肉を練ったような食料があった。蛮女は浦人たちが集まって話し合っているのを、微笑みながらのんびり見ているばかりであった。
古老が言うには、「これは蛮国の王の女が他所へ嫁いだものの、不貞が発覚して相手は処刑されたが、さすがに王の娘では殺すわけにもいかず、うつろ舟に乗せて流すことで生死を天に任せたのではないか。もしそうなら、その箱の中はおそらく処刑された愛人の首であろう。昔、やはりこのように蛮女がうつろ舟で流されて近くの浜に漂着したことがあって、その船中にはまな板のようなものに載せられた生々しい人の首があったという。この言い伝えを合わせて考えれば、その箱の中身もおそらくその類のものであろう。であれば、蛮女がそれを愛着を持って離そうとしないのもうなずける。」と。そして、これがお上に知られては村の負担も大変だ。以前にも海に戻してしまった先例もあるのだからと、また元のように舟に戻して沖へ引いて流してしまったという。
もし思いやりの気持ちがあれば、こんなひどいことはしなかったであろうが、こればかりはその蛮女の運命が不幸であったというしかない。
また、その舟に□□□□などの蛮字がたくさん書かれていたとのとだが、後で考えれば最近浦賀の沖に来たイギリス船にもこのような蛮字があった。ということは、その蛮女はイギリスかベンガル、もしくはアメリカあたりの蛮王の女ではなかろうか。あくまで推測だが。
当時の好事家が書き写して伝えたものは、右のようなものであった。図説ともに大雑把で具体的でないのが惜しい。もしこのことをよく知る者がいるなら、ぜひ詳しく聞かせてほしいものだ。

文中の□□□□の部分には例の宇宙文字みたいなのが入ります。
蛮字

← これね。


■長橋亦次郎「梅の塵」

つづいて「梅の塵」。これも後で検証用に使おうと思っていますので、先に全文掲載しておきます。
上と同様、昭和初期の刊行本より引用。<日本随筆大成第二期巻一(昭和三年)>

「梅の塵」(長橋亦次郎、無窮会専門図書館蔵)

「梅の塵」(長橋亦次郎、無窮会専門図書館蔵)


日本随筆大成第二期巻一(昭和三年)より。

空船の事
享和三癸亥年三月二十四日、常陸の國原舎濱と云處へ、異船漂着せり。其船の形ち、空にして、釜の如く、又半に釜の刃の如きもの有。是よりうへは黒塗にして、四方に窓あり。障子はことごとく、チヤンにてかたむ。下の方に筋鐡をうち、何も南蠻鐡最上なるもの也。總船の高さ一丈貳尺、横径一丈八尺なり。此中に婦人壹人ありけるが、凡年齢二十歳許に見えて、身の丈五尺、色白き事雪の如く、黒髪あざやかに長く後にたれ、其美顔なる事云計りなし。身に着たるは異やうなる織物にて、名は知れず。言語は一向に通ぜず。また小さ成箱を持て、如何なるものか、人を寄せ付ずとぞ。船中鋪物と見ゆるもの二枚あり。和らかにして、何と云もの乎しれず。食物は、菓子と思鋪もの、丼に練りたるもの、其外肉類あり。また茶碗一つ、模様は見事成る物なれども分明らず。原舎の濱は、小笠原和泉公の領地なり。


【現代語訳】
享和三年三月二十四日、常陸の国原舎浜というところに、異船が漂着した。その船の形は、中が空のお釜のようであり、真ん中あたりに釜の刃のようなものがあった。
そこから上は黒塗りで、四方に窓があり、障子はすべて樹脂で固められていた。
下の方は筋鉄が施されており、どうやら南蛮鉄の最上品のようであった。
船全体の高さは一丈二尺(約3.6m)、横の直径は一丈八尺(5.4m)。この中に年齢二十歳くらいの女性が一人いた。
身長五尺(約152cm)、雪のように白い肌で、長い黒髪が背中に垂れ、とても美しい顔立ちであった。
着衣は見なれない織物で、何というものか分からない。言葉も全く通じない。また小さな箱を持っていて、どういうわけか人を近づけさせなかった。
船中には敷物らしきものが二つ。やわらかく、何というものかは分からない。
食物は、菓子のようなもの、丼に何か練ったもの、あと肉類があった。それと何というかわからないが、見事な模様の茶碗が一つあった。
ちなみに原舎という浜は、小笠原和泉公の領地である。

■駒井乗邨「鶯宿雑記」

最後に、前の記事でも触れました「鶯宿雑記」。いまのところ、うつろ舟関係で最も古いとされる資料です。馬琴のうつろ船の蛮女と内容をくらべてみてください。

駒井乗邨「鶯宿雑記」のうつろ舟

駒井乗邨「鶯宿雑記」のうつろ舟

享和三年亥八月二日常陸国鹿嶋郡阿久津浦小笠原越中守様知行所より訴出候に付早速見届に参候処右漂流船其外一向に相分り不候に付
光太夫ェ遺候由之紅毛通じも参り候へ共相分り不申候由ウツロ船能内年能此廿一二才ニ相見ェ候女一人乗至て美女之船の内に菓子清水も沢山に有之
喰物肉漬能様成品是又沢山に有之候由白き箱一ツ持是ハ一向に見せ不申右の箱身を放さす無理に見可申と候ヘハ甚怒候由
船惣朱塗窓ハひいとろ之大きさ建八間余横十間余
右ハ予御徒頭にて江戸在勤のセつ能事之江戸にて分かり兼長崎へ被遣と聞しか其の後いつれの国の人か分かりや聞かさりし


【現代語訳】
享和三年八月二日、常陸国鹿嶋郡阿久津浦の小笠原越中守様知行所より訴えがあって見分に向かったところ、右のような漂流船であること以外、詳しいことは全くわからなかった。そのため、光太夫に遣わされたこともあるという西洋事情通にも来てもらったがやはり何も分からなかった。ウツロ船の中には年の頃二十一、二に見える女が一人乗っていて、この美女の船には菓子や水が沢山あった。食べ物らしきものは、肉を漬けたようなものがやはり沢山あった。白い箱を一つ持っていたが、これは絶対に見せてくれず、無理に見ようとするととても怒った。
船は全て朱塗りで窓はガラス、大きさは縦八間(14.5m)あまり、横十間(18.2m)あまり。
以上のことは私が御徒頭として江戸詰めだったときの話で、何も判明しないまま長崎に赴任したが、結局どこの国の人であったのか、後になっても判明したという話は聞いていない。

文中に登場する光太夫というのは、あのロシア漂流で有名な大黒屋光太夫のことでしょうね。

写本「漂民御覧之記」(当サイト所蔵)より、右頁左側の人物が光太夫

写本「漂民御覧之記」(当サイト所蔵)より、右頁左側の人物が光太夫


さて、いよいよ次回からナゾの「未発見うつろ舟」の古文書について見ていきます。
お楽しみに!(^-^)/
「江戸時代の浮世絵にUFO!?うつろ舟の謎 (4)」につづく)