最初に紹介した馬琴の絵は、「兎園小説」という随筆集に収められているもので、馬琴も所属する「兎園会」という好事家グループ内で語られた各地の珍談・奇談を書物にまとめたものです。
馬琴のうつろ舟は、この兎園会で息子の琴嶺が披露した「ふしぎ話」のひとつでした。

兎園小説にはこの話の絵について、

「当時好事のものの写し伝へたるは右の如し。図説共に疎鹵にして具ならぬを憾とす。よくしれるものあらばたづねまほしき事なりかし。」
(当時の好事家が書き写して伝えたものは、右のようなものであった。図説ともに大雑把で具体的でないのが惜しい。もしこのことをよく知る者がいるなら、ぜひ詳しく聞かせてほしいものだ。)

と、もともと「大雑把な絵に簡単な文章」の別の資料が存在し、馬琴親子はそれを参考にしながらこの「うつろ船の蛮女」を書いていたことが伺えます。
ではその「別の資料」とはいったい?

実は7点の文献のうち、興味深いことに馬琴のものとそっくりな絵が描かれたものがあります。
屋代弘賢の「弘賢随筆」です。

屋代弘賢「弘賢随筆・うつろ舟の蛮女」

屋代弘賢「弘賢随筆・うつろ舟の蛮女」 - 国立公文書館HP(http://www.archives.go.jp/)より


兎園小説「虚舟の蛮女」日本随筆大成第二期巻一(昭和三年)より

兎園小説「虚舟の蛮女」日本随筆大成第二期巻一(昭和三年)より

んー、そっくりですね。(馬琴の絵はここではモノクロですが、実際の原本には彩色が施されていて、弘賢のものとまさにウリ二つです)
でも、それもそのはず。弘賢のうつろ舟は、馬琴の原画になったと考えられているのです。
実は作者の屋代弘賢も馬琴と同じく例の兎園会のメンバーのひとり。その繋がりで絵や情報をお互いやり取りしていたのではないかと思われます。

そうすると馬琴のうつろ舟は、すべてこの屋代弘賢がネタ元ってこと?

いえ、そうでもないみたいなんです。

先ほどの馬琴の文で、「詳細を知る者がもしいれば…」と書かれているように、兎園会メンバー内にも、この話に関してこれ以上詳しい者が誰もいなかったようなんです。ということはつまり、原画を提供した屋代弘賢もこれ以上の情報は持っていなかったということです。
おそらく、話も絵も、ベースとなったのは馬琴が参考にしていた「大雑把な絵に簡単な文章」の別資料の方で、弘賢と馬琴の空想を加えてよりリアルっぽい絵にアレンジされたのではないでしょうか。
馬琴「うつろ舟」成立過程
そうなると今度はその別資料の正体が気になります。いったい馬琴はどんな資料を参考にしていたのでしょうか。

■一次資料はどこに?

前回の「その1」で挙げた7点の資料のうち、馬琴が資料に用いた可能性があるのは、「兎園小説」より成立年代の古い「鶯宿雑記」(1815年)のみで、他は「兎園小説」以降の時代に書かれたものばかりです。
(※ただし、『木版摺物』だけは成立年代不明。文中に「去る亥年の二月」とありますが、具体的にいつの亥年なのかは特定できません。「兎園小説」以前の可能性も考えられますが、いずれにしても特定できる根拠がないため、対象から外しました)

«2012年4月追記»

2012年4月23日、茨城県日立市内の旧家で発見されたうつろ舟史料に「享和三癸亥三月廿四日」(1803年3月24日)の記述が見え、もしこれが正しければこの史料が2012年4月現在、うつろ舟伝説を伝える最も古いものということになります。

新聞発表記事→ 【茨城新聞】異国美女漂着「うつろ舟」奇談 日立の旧家に新史料

駒井乗邨「鶯宿雑記」のうつろ舟

駒井乗邨「鶯宿雑記」のうつろ舟

「鶯宿雑記」の絵と文章は、確かに大雑把なものではありますが、しかし馬琴のものとは構図自体あまり似ていませんし、図の左側にある宇宙文字のような謎の文字も馬琴のとは全く異なります。後でご紹介しますが、ストーリーもあまり合致していませんので、馬琴がこれをモデルにしたと考えるのは少々無理があるように思われます。

ということは、現在判明している資料にはどれも馬琴の「元ネタ」になったと思われるものはなく、まだ知られていない謎の資料がどこかに埋もれているということになります。
そしてその一次資料こそが、おそらくは変なアレンジの施されていない、うつろ舟事件のよりリアルな状況を伝えるものである可能性が高いのではないでしょうか。
もしそれが発見されれば、事件の真相を検証するうえで大変重要な手がかりになるものと思われます。


…というわけで、ずいぶん長い前フリとなりましたが、ここからが本題です。
今回ご紹介するのはこちらの古文書。

うつろ舟新資料

うつろ舟新資料(当サイト所蔵)


とある経路で入手したもので、稚拙なタッチではありますが見覚えのある舟と女の絵が描かれているのを見て、これがうつろ舟関係の古文書であることはすぐに気がつきました。
が、『ああ、例の馬琴の「うつろ舟」のヤツか。きっとその写しか何かだろう』と、私も最初はたいして気にも留めなかったのです。
しかし、改めてそこに書かれた内容を読んでみて、正直驚きました。

この資料は、これまでのどの文献にも語られていない、未知の「うつろ舟」だったのです。

気になるその内容については、また次回以降で…
「江戸時代の浮世絵にUFO!?うつろ舟の謎 (3)」につづく)