今回取り上げるのは写本からです。
江戸中~後期の珍談、奇談が数多く収められたことで有名な「耳嚢(みみぶくろ)」の写本で、手元にあるのは慶応元年に写されたものです。
耳嚢は、南町奉行の根岸鎮衛が人づてに耳にした諸国の怪談、奇談、珍談などを、江戸の天明~文化までの約30年間にわたって書き記した随筆集で、全10巻に及ぶ大作。今回はその中から、巻の一「河童の事」をご紹介します。
耳嚢より「河童の事」


塩漬けにされた河童の話

耳嚢 巻の一より「河童の事」

「河童の事」 耳嚢 巻の一より

「河童の事」 耳嚢 巻の一より/当サイト所蔵

天明元年の八月頃、仙臺河岸伊達侯の藏屋敷にて、河童を打殺し塩漬にいたし置く由、まのあたり見たる者の語りけると圖を松本豆州持來る。
其子細を尋るに、右屋敷にて小兒など無故入水せしが、怪むものあつて右堀の内淵といへる所を堰て水をかへ干けるに、泥を潛りて早き事風の如き物有。漸(やうやく)鐵砲にて打留しと聞及びし由語りぬ。
傍に曲淵甲斐守ありて、むかし同人河童の圖とて見侍りしに、豆州持參の圖と違なしといゝぬ。右の圖左にしるす。

【現代語訳】

天明元年の八月頃のこと。仙台河岸・伊達候の蔵屋敷で、河童を叩き殺して塩漬けにしたという事件があり、実際にその場で見た者の話と図を、松本豆州が持参して来た。
話の詳細を尋ねると、その屋敷では幼い子供がたいした理由もないのに溺れる事故があり、不審に思った者が掘の内淵をせき止めて水を干上がらせたところ、泥に潜りながらまるで風のように素早く動き回るものがおり、ようやくこれを鉄砲で仕留めたということである。
たまたま側にいた曲淵甲斐守が言うには、「昔、私も河童の絵というものを見たことがあるが、豆州の持ってこられたこの絵とまったく同じであった」と。その図を左に記す。

河童の図

河童の図

お話は以上です。で、この図がそのときの河童の絵なのだとか。もちろん写本なので、絵も写しですからオリジナルとは多少違いがありますけどね。

話の中では河童がなぜ塩漬けにされたかは語られませんが、これは別に漬物にして食べてしまおうというわけではありませんよ。
江戸時代は罪人の死体の腐敗を防ぐために塩漬けにすることがよく行われていて、要するに事件の裁きが終わるまで、死体を現状保存しておくための工夫なのですが、この河童の場合も同様の理由で塩漬けにされたのだと思います。